2006/01/31

【Diary】京都へ


◎祖母の13回忌で京都へ行ってきた。 この時期の京都は洒落にならないほど寒いのではないか…と妻と共に完全防備で行ったのだが意外や意外 寒さは緩めであった。(とはいっても十分寒いが…)
今回の京都旅行にはもう一つ目的があった。 祖母の3回忌以後立ち寄る事が無かった祖母の実家やその周辺はどうなっているのか。 それをこの目で確かめて見たかった。
祖母の生家は高瀬川に沿っており、私が物心つく前は有数の旅館であったと言う。 その後旅館業を廃業して小料理屋となり、代替わり(私の叔母に当たる)して今に至る。
その生家は火事で半分以上が消失し、祖母はそこで死んでしまった。
母に聞くと、生前は商売人として多大なる苦労をした、「豪傑」と呼ぶにふさわしい人物だったとか。
そんな祖母は自分の稼いだ物は全て天国に持って言ってしまった、などと、残されたものたちは笑っていたのも懐かしい思い出である。

◎四条河原町の界隈に出ると、10年以上の月日が街の様子を大きく様変わりさせてしまっていたが、それでもここは私にとって懐かしい風景であることを思い出させてくれた。
四条大橋の手前で木屋町通りに入るが、ここで異変に気づく。 車の量が極端に少ないのだ。
どうやら、区画整理により木屋町通りは一方通行となり、下京のほうからやってくる車は皆無になってしまったのだ。

◎そんな木屋町通りに足を踏み入れたときにその異変は確信に変わった。かつては小料理屋が立ち並び人々がせわしなく行き交い、車が走り回る活気のある通りはすっかり影を潜め、性風俗店が並ぶまさに現代の色街になってしまっていた。
京都らしい風景こそ変わって居ないが、そこに「古都」としての風情は完全に失われていた。
そして、祖母の生家はそこにあった。 が、明らかにそれは「違う」と認識させるに十分なものであった。
建物は何も変わって居ない(火事の際、通りに面した側は焼失を免れていた)が、少なくとも私や母がノスタルジーを感じるような生家ではなく、そこにあるのはただの小料理屋でしかなかったのだ。
しかし不思議とショックは無い。
変わるべくして変わっているもの。 祖母が引退して以後、この家はそれまでの全てを否定するかのような変革を続けてきた。
そして木屋町をはじめとした町並みも変革していった。
結果としてそれが良かったのかどうなのかは判らない。 一つだけ言える事は、確実にここは寂れた街になってしまったということだ。
せめて当時から何も変わらなかった高瀬川からの風景、それだけは写真に収めておいた。


◎さて13回忌だが、日程の都合で叔母のほうが正式な法要はすでに終わらせてしまっているので、我々はただ墓参りをするだけだったのだが、機転を効かせた当時の従業員が仲間に声をかけ、集まって見ればまさにあの旅館を祖母と共に築き上げたメンバーが出揃い、実ににぎやかな墓参りとなった。
あまり身内の悪口は言いたくないが、叔母は「法事」と言う行司の格式を重んじ、寺の本堂で正式な法要を行ったという。 しかしそこに出席したのは、叔母を中心にした身内だけのものであったと聞いている。
我々が行った事はただの墓参りで、服装も思い思い、もちろん坊主も居ないしお経を上げる人も居ない。
ただ故人をしのび、そして(ポジティブな意味で)個人の思い出話や悪口を並べ立てて笑いあっていた。
楽しい時間はそのまま市中のお座敷へとつながり、楽しい昼食会と相成った。

◎故人をしのぶ、と言うことはとても大切なことであるが、本当に誰かをしのんだり、思いやったりすることは、ただ形式を重んじて決められた行事をこなすことなのか、それとも自分たちや(偲ばれる人が望まれるであろう)スタイルで執り行うのと、本当に幸せなのはどちらなのだろうか。 そんなことを考えさせられた。

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